中村 弘吉
Tomarun interview!みなみレッドのお父さん
●就農までの道のり
1955年生まれ、3人兄弟の三男として農業を営む家庭に生まれ、地元の愛知県立福江高等学校に進学したこうきちさん。上の2人のお兄さんが実家を離れ独立したことで家業を継ぐ流れに。多感な高校生、反抗期でもあったが大型温室ができはじめ、フロンティア団地の計画を聞き、農業が変わる予感がして「これならいい」と思い、就農に納得したそう。その後、愛知県追進営農大学校(現:愛知県立農業大学校)で2年間、大型温室に関する知識やノウハウを習得し、卒業後そのまま家業を手伝う形で就農します。20歳の時に、先代から経営や栽培などをすべて任され、現在まで田原で農業を続けています。
●大型温室の黄金期
大型温室ができるまでの農業は、1日1万円農業と言われた時代。しかし、大型温室の時代になったことで「8ケタ農業」と言われ、農業の黄金期に突入します。初めに取り組んだ輪菊は現在の3倍程度の価格で取引されることもあるほどの農業に注目が集まるバブル期、「いい時期だった」と振り返ります。こうきちさんは、その時代、その時代に合わせて先取り、栽培品目を変更してきたそうです。
●みなみレッドが創立されるまで
大型温室でまず取り組んだのは輪菊。当時の菊は「できる環境でできた菊」を出荷するのが主な流通の時代、弘吉さん取り組んだ「大型温室で育てる加温菊」は大学での勉強が役立ち、順調に栽培して軌道に乗っていきます。しかし、この時期は個撰での出荷が主、販売に関する交渉もすべて農家がやっていました。その後、こうきちさんは1979年(昭和54年)からファーストトマトとメロンの栽培にシフト。2001年(平成13年)に新たな生産グループとしてつーくんを含む8名で研究会ができ、その後「地域を越えて協力ができて、農家自ら交渉できる組織」というこれからの部会「みなみレッド」(みなみレッドの歴史はこちら)が発足しました。実はこうきちさん、とまらん♪シンディの栽培の傍ら、みなみレッドでアイコの栽培を進めた発起人。自身でもアイコ栽培にチャレンジしてみたものの、栽培、食味や相性などシンディが自分に一番合っていると感じ、このままシンディと向き合うと決めたそうです。
●普段のこうきちさん
先日行われた「第1回とまらん♪オープンファーム」ではとまらん♪シンディの圃場紹介で案内してくれた気さくなこうきちさん。現在は、奥さんとの二人暮らし。パートさん数名と約1210坪(40a)を朝から栽培管理~出荷まで行っています。お休みは夫婦別々に取ることがほとんどで、こうきちさんはゴルフに行くことが楽しみだそうです。できれば一緒に旅行に行きたいとおっしゃる奥さん、「なかなか難しいね~」と苦笑いのこうきちさんです。
●みなみレッドのために
「農業は自然相手なこともあるので難しい、また現在の農家は労働力を利益につなげにくい職業。自分の頃は農業が一番よかった時代、今が一番大変な時代。しかし収支を合わせていく努力は忘れてはいけない。」とみなみレッドのメンバーを思います。「農業全体を見渡せば、後継者問題に代表されるように魅力のある状態ではない。地域の枠を広げて他産地に対抗できる体制を作れたら」と地域の将来も思います。「若いうちから、やりたいことをやってきている。今のメンバーの活動をもっと盛り上げて欲しい。何かあれば力を貸すよ」と笑顔のこうきちさん。先を見ていち早く取り組み、培った技術でカバーしつつ、これからもみなみレッドのとまらん♪シンディを支えていきます。